僕は文化人類学者のアルフレッド。
今日はプロレスというカルチャーの実態を探るため、とあるインディー興業にフィールドワークにやって来た。
見栄えのいい紅顔の青年、年甲斐もなく赤パンツで登場するオヤジ、同じく真っ赤な衣装が怪しいマネージャーと思しき老人。
このキャスティングで大体の試合内容が想像できるのは、なにも研究者だけではあるまい。
キャスティングという言葉を使ったが、プロレスはスポーツ興業より演劇に近いものだと僕が考えているからだ。
もちろん演者にはかなりの特殊技能が要求される。
強靭な肉体、高度な身体能力、そして・・・・
演者たるレスラーに必要不可欠だと思われる第三の資質については後述するとして、まずは試合を分析してみよう。
赤シャツの翁は当然のように記号的な役割を忠実に演じている。
ヒールたる赤パン・レスラーに加勢し、レフェリーの目を盗んで青年レスラーを攻撃するというアレだ。
もちろんレフェリーは虚を突かれているわけではない。
むしろ赤シャツ翁の出番のための時間を作っている。
彼は舞台上にいながらタイムキーパーの役割を担っているのである。
悪徳マネが登場する試合には、概ね二通りのパターンがある。
実質2体1となった闘いで、不利な状況を跳ね返してヒーローが勝利するというパターンと、ヒール達の卑劣さ故にヒーローがリングに沈められるというバッドエンドだ。
前者が非常にわかりやすいエンターテイメントであるのに対して、後者における需要とは一体どこにあるのだろう。
僕が注目するのは圧倒的に後者のバッドエンドの方だ。
今日の試合は凶器を手にしたヒールに青年がKOされるという結末に終わった。
ブーイングが飛び交う会場で、この状況を喜んでいる者は誰だろうと思いを馳せてみる。
それは・・・・
ここにいる大人達全員だ。
非情に理不尽であるとは言え、一応試合は決しているのになおも青年を痛めつけるヒールとマネージャー。
キッズたちはともかく、大人たちはこれがハプニングではないことを知っている。
プロレスはあらゆるスポーツ興業の中で、もっともハプニングが少ないものだといっても過言ではない。
極端に言えば、全てはシナリオ通りなのである。
繰り返すが、インシデントを管理するためにはレスラー個人の非情な鍛錬が必用だ。
だとしても、完全に予定調和の中でのリンチ劇に真剣に非難の声を上げる大人達とは?
そう、彼らは楽しんでいるのである。
大人は作り物であると解かっていても、そこに感情移入し、興奮し、娯楽感を得る術を身につけている。
そうでなくて誰が映画や小説を楽しむことが出来るだろう。
観客たちがこの身体を張った寸劇に見出す娯楽性とは何であろう?
これは僕の学説の核となる部分である。
それは「エロ」だ。
観客のブーイングはシナリオ中のセリフにも匹敵する重要なアイテムだ。
正義が蹂躙される悪魔の光景に憤り泣く者がいる。
その舞台設定は演者の気持ちを昂ぶらせ、いつしかレスラーは自らが演ずる人物と同一化する。
マネ翁のシャツの赤さは地獄の炎のごとく燃え上がる。
しもべたる赤タイツは男根を牙のようにおっ勃てて嗜虐性を全開にして青年に襲い掛かる。
青年は自分への声援を聞きながら成すすべもなく嬲り者にされることで気高い悲劇のヒーローに同化し、股間の盛り上がりや悶えるケツが観客に与える意味について思いを馳せる。
そして勃起する。
黒いデザインタイツの内に雄を発射して劇は終幕を迎える。
成熟した男がブリーフ姿で身体を絡ませ、挙句、SMのごとき責めと受けを繰り広げる。
この卑猥さに客は気付いていながらも気付かないフリをして劇の構成要素としてふるまう。
この文化は、ヒールとヒーロー、そして客が三位一体となって完成される非常に高度な猥褻興業だったのだ。
僕はガチガチに硬くなった己の男根に、改めてそれを確信した。
※アルフレッドの論文は学会でことごとく無視され、彼の学説が日の目を見ることは無かった。
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