風に潮の気配がした。
藤堂猛はふと顔を上げた。
埋立地のタワーマンション建設現場。海はまったく見えない。
ここの上階に住む人間は東京湾を眺めながらの暮らしを営むことになるのだろう。
海を臨む生活。藤堂は少しだけ羨望を感じている自分に気付いていた。
潮の匂いは藤堂の「雄」を疼かせる。
木下啓吾が待機所に入ってきた。
「次のトラック、渋滞で遅れるらしいっすよ。」
ラークの箱を作業ズボンのポケットから出しながら、啓吾はため息をつく。
「今日は楽勝現場だから、早く上がれると思ってたのにな。」
藤堂のポケットでブルブルと振動音が鳴った。
「ちょっと出てくるぞ。」
待機所から出た藤堂はスマホの画面をタップした。
「猛者同盟、新木場、あと2時間で開場。行けますか?」
妙に勿体つけた若い声が告げた。
「了解。」
一言だけ答えると藤堂はスマホを切った。
待機所に入ると啓吾が自販でコーヒーのボタンを押すところだった。
「俺は上がるぞ。オヤジには〝本業〟が入ったからと伝えておいてくれ。」
「えっ、あと俺一人で納入っすか?」
「今日はたいしたことないから一人で大丈夫だ。」
さっさと着替えを始める藤堂。
黒いラッシュガードを脱ぐと、盛り上がった肩がむき出しになった。
ちょっとした動きに大胸筋がピクピクと脈打つ。
「ザ・男」的な上半身に思わず息をのむ啓吾。
ニッカポッカを脱ぐと黒いケツ割れのストラップが肉に食い込むデカ尻が現れた。
「す、すげーパンツっすね・・・」
ジョック・ストラップを見たこともなかった啓吾は心底驚いていた。
ポロシャツにチノパンの小ざっぱりした格好になった藤堂は、装備品で膨れるリュックを担ぐと、
「じゃ、頼むぞ。」と言い残すと、風のように待機所を出て行った。
入れ違いに入ってきたのは親方の手塚重雄だ。
「藤堂、行っちまったか・・・・。あいつが抜けると3人足りないと同じだな。」
「あーあ、俺ひとりで残り運ぶんすか?」
「俺も手伝うから、なんとかやろうや。」
「ったく・・・。藤堂さんの〝本業〟ってなんなんすか?よくいなくなりますよね。」
「んん・・・あいつの本業な・・・」
手塚は急に嬉しそうな顔を浮かべた。
「あいつは〝職人〟なんだ・・・・」
〝職人〟フラッシュ藤堂。
インディー・プロレスに明るい者は彼をそう呼ぶ。
ここ数年、あちこちのインディー団体にスポット的に出場する中堅レスラー。
一口にインディー・プロレスといっても、その興業のあり様は団体によって様々だ。
そのファイト・スタイルの多様性がインディー・プロレスにコアなファンを根付かせている。
逆に言うと、ファンは自分たちの望まないプロレスには非常に敏感で、ある意味排他的な空気を醸している。
そんな状況の中、どの団体の試合に出てもファンを納得させられる藤堂はまさに〝職人〟だった。
「でも藤堂の真価は〝やられ職人〟ってとこなんだよな~」
予定選手の欠場でフラッシュ藤堂の登板のアナウンスを聞いた田代誠二はニヤニヤした。
誠二はプロレスを見て欲情するという性癖の持ち主だった。
彼は高額の会費を払って闇の地下プロレスの会員になり、男同士の情念がぶつかり合う闘いを思う存分愉しんでいた。
だが、最近の団体の方向転換に伴い、いまひとつ地下リングに乗り切れずにいた誠二は、地上のインディー・プロレスに「ネタ」を求めて時々観戦に訪れていた。
「猛者同盟」はエースの桜井勇治が激エロで、誠二のマイ・ブームになっていた。
思いがけずフラッシュ藤堂の出場に出くわして「超ラッキーじゃん!」と大興奮だった。
地下プロレス会員の誠二は、藤堂の「過去」についてなんとなくだが知っていた。
藤堂は突然現れた謎のフリー・レスラーとして、そのプロフィールの詳細はほとんど表に出ていない。
歳は30歳前後だろうか。あれほどの技量を持ちながら、どこの団体にも属した経歴が見当たらない。
常にピン・スポット的に試合に出るため、これまで深く詮索されなかったのだろう。
表にはしたくない経歴がフラッシュ藤堂にはあった。
誠二が会員登録している団体とは別の地下プロレスで、フラッシュ藤堂はチャンピオンだった。
ある試合で新人に敗北し、その団体の掟で一晩客に凌辱されたのだという。
誠二は地下の噂話でそんなことを聞いていた。
それからどんな理由で地上に出てきたのかは解らないが、こうして藤堂のファイトを見ることができるので誠二は満足だった。
「さすが地下出身だけあって、藤堂のやられはエロエロだよな~。今日の対戦相手は阿木だろ。超ヒールじゃん。めちゃめちゃ愉しみ~。」
ポケットに手を突っ込み、ズボンの下に履いた競パンの股間を人知れず揉む誠二だった。
控室に走り込んできた藤堂は、手近なロッカーを開けると早速着替えを始めた。
試合開始まで30分程しかない。
「よかった。間に合いましたね!」
振り向くと猛者同盟の看板レスラー桜井勇治が微笑んでいた。
「ああ・・・。今日は呼んでもらってありがとうな。」
「いやいや、急なお願いですみません。本当はレギュラーで出て欲しいくらいなんですが・・・・」
「ん・・・・それは・・・」
「解ってますって。無理なことは言いませんよ。それじゃ今日はよろしくお願いします。」
「こちらこそ。」
「今、阿木を呼びますからチャチャッと打ち合わせしちゃってください。」
さわやかな笑顔の余韻を残し勇治が控室を出て行った。
彼は今日のメインに出るのだろう。青いショートタイツの股間が艶めかしかった。
(あいつは男を知っているな・・・)
ネイビーのショートタイツに足を通していると、ケツをピシャッと叩かれた。
「いいケツしてるじゃねぇか!こりゃ男でもグッとくるわな!」
今日の対戦相手、阿木銀次郎が嫌な笑みを張りつかせていた。
「今日はお前はヒールの餌食になる哀れなジョバー役だ。得意だろ?俺の恐ろしさを引き立てるようにしっかりやれよ。」
「了解・・・。」
無愛想に答える藤堂に阿木は少しムッとした表情になった。
「おまえ試合中に勃つんだって?」
一瞬びくっと背中を震わせた藤堂が鋭い視線を阿木に向ける。
その迫力に気圧された阿木が一歩後ずさる。
「おいおい怖い顔で睨むなよ。じゃ、今日は頼むぜ・・・・」
阿木が出て行くまで藤堂はその背中を睨み続けた。
一人になると黙々とリング・シューズを装着し始めた。
(やっぱり気付かれるよな・・・・)
プロレスの試合中に勃起することは無い話ではない。
男の生理現象はコントロール不能だ。選手同士の笑い話ではちょくちょく聞く話だ。
だが藤堂は毎試合確実に勃起した。
地下ではそれが普通だし、むしろ求められていた。
男の汗だくの肌に密着し、雄をいきり立たせながら闘うのがプロレスだと思っていた。
(しかたがない。それが俺なんだ・・・・)
「藤堂さん、そろそろ出番っす!」
係員が呼びに来た。
藤堂はタイツの股間の位置を整え、入場口に向かった。
つづく
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